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Jan
20th
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パターナリズムの類別

パターナリズムの類型については、以下のような類型区分が提起されている[7]。
[編集] 強いパターナリズムと弱いパターナリズム

この類別は、介入・干渉される者に判断能力、あるいは自己決定する能力があるかないかという点で区分される。強い(硬い hard )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、自己決定能力があっても介入・干渉がおこなわれる場合をいう。他方、弱い(柔らかい soft )パターナリズムは、個人に十分な判断能力、自己決定能力がなくて介入・干渉がおこなわれる場合をいう。

成熟した判断能力をもつ個人への干渉や介入に反対する、反パターナリズムの論者も、子供や十分な判断能力のない大人への保護は必要であるとしている。そのように弱いパターナリズムを容認する場合でも、「個人の十分な判断能力、自己決定能力」の範囲をどのように見極めるのかといった点で、慎重な検討が必要となる[8]。
[編集] 直接的パターナリズムと間接的パターナリズム

この類別は、パターナリスティックな介入・干渉を受ける者と、それによって保護される者とが同一であるか否かで区分される。

直接的パターナリズムは、オートバイ運転者のヘルメット装着義務のように、パターナリスティックにその義務を強制される者と、それによって保護される者が同一の場合である。他方、間接的パターナリズムは、両者が同一ではない場合をいう。例えば、クーリングオフ制度のように、保護されるのは一般の消費者だが、パターナリスティックに規制を受けているのは販売業者である場合である[9]。

Jan
8th
Fri
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合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、かならずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語。

目次

//<![CDATA[ if (window.showTocToggle) { var tocShowText = “表示”; var tocHideText = “非表示”; showTocToggle(); } //]]>

[編集] 概要

Question book-4.svg この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

ミクロ経済学では(一面ではマクロ経済学においてさえも)ある主体が他に与える影響が再び主体に返ってくることを想定しない。プライス・テイカー[1]などの言葉に代表されるように、複雑な経済構造を理解するため、第一段階においては主体単独の行動についてのみ考慮する。

例えば、家計貯蓄などがこれに当たる。所得が一定の場合、一家計が消費を削減した場合、必ず貯蓄額が増加する。これはミクロの視点において、一家計の支出削減は経済全体に影響せず、その家計の収入を減少させる効果は無いと考えられているためである。そのため所与の収入において支出を削減すれば貯蓄額が増加する。

しかしマクロの 視点においては状況が変わる。経済全体の家計が貯蓄を増加させようと消費を削減した場合、貯蓄率が上昇するが貯蓄額は変わらない。一方の経済主体の支出 は、他方の経済主体にとっては所得となる。そのため家計全体が消費を削減することで、家計の所得も減少するためである。収入が減少するため貯蓄額の割合は 高まり、貯蓄率が上昇する。家計の支出削減の努力は自らの収入減少に帰結する。マクロ経済においては家計の貯蓄額を決定するのが企業・政府の投資と経常収 支の合計だからである。

他にも、企業の人員削減や、関税障壁による貿易収支の改善など、ミクロでは正しくてもマクロでは違う結果をもたらすものは多い。それはミクロのメカニズムが経済の一片における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは経済全体の循環における仕組みだからである。

[編集] 現実の例

現実の経済政策決定においては合成の誤謬を考慮しなかったために思う結果が出なかったことがある。

  • 1990年代半ばから2000年代の日本において、バランスシート不況の発生によりゼロ金利下であるにもかかわらず企業バランスシート改善のために借金返済を優先し、資金需要は喚起されなかった[2]
  • 世界恐慌において、それまでどおりの均衡財政を維持しようとしたアメリカ政府は、自らの歳出削減による経済縮小と歳入減少に苦しんだ。
  • 1990年代の日本において財政改革で財政再建や増税をした結果、景気が著しく悪化しかえって財政構造が悪化したことがある。

これは財政が経済に占める規模が大きいため、一家計や一企業の収支を改善する方法が通用しないことを示している。

  • 江戸時代において米沢藩の財政改革が成功したのに対して江戸幕府改革がたびたび失敗している。米沢藩が歳出削減や他藩への輸出興業を図ることができたのに対して、幕府は、自らの改革が自らへ悪影響をもたらすほどに大きかったためである。領国経営において緊縮財政による財政改革に成功した徳川吉宗松平定信の改革が失敗したのはこれによる。

上記の例のように、国民経済の枠組みにおいて財政は割合が大きいが、世界経済の枠組みにおいては、一国の財政はミクロの枠組みにおいて行動できる。このため通貨切り下げなどで自国経済を活性化させることで財政構造を改善することが出来る。しかし、この政策も結局世界中の国で行なわれれば、合成の誤謬が発生する。

世界恐慌後の世界では、各国が通貨切下げや関税障壁構築により自国経済からの需要漏出を防ごうとしたが、主要国がこぞってこのような政策を採用した結果、ブロック経済が出現し思うような改善を図れなかった。その上、自由貿易の 利益も喪失され各国経済は著しく非効率な状態へ陥り、フランスやアメリカでは厳しい不景気が長引いた。 一方的な拡張的金融政策は、当該国のマネーサプライを増加させその国の通貨価値が下落し、輸出拡大につながりその国の経済は改善するが、他国においてはそ の逆の効果を生じるという近隣窮乏化政策の一つである。 世界恐慌の時期には全ての国において拡張的金融政策がとられた結果、外需拡大の効果は相殺されあう事となる、しかし 国際学派のアイケングリーン=サックスによると世界的な拡張的金融政策は世界的なマネーサプライの増加をもたらし、その結果、各国で内需の拡大がもたらさ れ世界恐慌からの離脱の契機になったと述べられている。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 完全競争市場において、価格を所与のものとして受容し行動する市場の参加者(生産者や消費者のような経済主体)をプライス・テイカー(価格受容者)と呼ぶ。
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戦闘教師「ケン」 激闘永田町編: 戦艦大和をめぐる日本人の財政感覚 http://kenuchka.paslog.jp/article/1290223.html
— 2010年度予算は、世界的な金融不況を受けて税収が大幅に落ち込んだ結果、44兆円の国債発行額に対して、税収は37兆円に止まり、ついに収入を上回る借金をしながらの生活を余儀なくされるに至っている。
これは国だけの話ではなく、どこの地方自治体も程度の差があるだけで、大差はない。
その要因は無数にあり、説明には別途稿を要するが、大きな要因としては「高齢化による年金・医療費支出の肥大化」「大型公共事業の乱発」「減税志向・増税の忌避」が挙げられる。
収入は減少傾向にあるにもかかわらず、支出と膨大な借金はさらに増え続けそうであり、なおかつ日本の最大の資産の一つたる米国債はいつ紙クズになってしまうか分からないという、普通の医者なら開腹してそのまま閉じてしまうような状態にある。
ただでさえ高齢で一度は引退された藤井先生が、自信をなくされるのもよく分かる(気がする)。いまさら幹事長とやり合う気力もないだろうし。
どの家庭でも同じことだが、家計が苦しい時にまずやることは、支出を抑え、収入を増やすことだが、今の鳩山政権にどこまで可能かは疑問である。参院選を前に、支出を抑えることも、増税を打ち出すこともできないからだ。
日本の政治を舞台の内側から見ていると、日本人というのは商売感覚はあっても、財政感覚はほとんど無いのではないかと思えてきてしまう。
「大和いいじゃん」という日本人の感覚は、いまもって第二次世界大戦の総括・反省がなされていない(懺悔はしても)ことを示している。

いいわけねぇだろっ!
大叔父の怒りが私に下りてきそうだ。そこで、
「大和建造」という超大型公共事業を財政の視点から今一度検討してみたい。

大和型戦艦の建造費は、おおよそ1億4770万円。その後の改装費は含まれない。
良く「国家予算の3%」という言われ方をするが、「昭和の三大公共事業」は他に瀬戸大橋とアクアラインが挙げられており、同規模と判断されているからだと考えられる。
しかし、財政学の視点から言うと、それほど甘いものではない。
高度成長期に計画された瀬戸大橋やバブル前に企画されたアクアラインと、戦争直前に計画された大和とでは、根本的に財政環境が異なるからだ。

「国家予算の3%」というのは、歳出の3%を意味するようだが、歳出の中身も予算の質も、戦争前後では大きく異なる。
大和型戦艦が予算計上された昭和12年度予算における一般歳出は、追加(補正)予算を含めて34億8900万円。
しかし、同年7月に盧溝橋事件と上海事変が勃発し、日中戦争に発展したため、急遽臨時軍事費特別会計が編成され、その額は20億2200万円に上った。
その結果、最終的な予算額は55億円を超えるに至った。

ところが、である。
そのうち租税と印紙による基本的な税収は、わずか10億円強に過ぎないのだ。
塩・たばこ・砂糖の専売や、その他の官業収益、国家資産の整理などを含めて、ようやく15億円に達するような有様だった。
もっとも、一般歳出も戦争勃発に伴う追加予算の編成で膨れあがっただけで、昭和8年から11年までは22~24億円程度に収めているし、臨時軍事費もない。
つまり、歳出ではなく、政府収入から見た場合、大和のムダさ加減は一層強調される。
15億円しか借金ではない真っ当な収入がないところに、1億5千万円の戦艦を2隻もつくってしまったのだ。
もちろん、当初の予算上は1億3000万円程度だったのだが。
マスコミ風に表現するなら、300万円しか収入のない家庭で、300万円借金して、60万円のラジコンを発注してしまうような話だった。
ラジコンならまだ誰も死なないが、大和の場合は、ロクに戦果を挙げられないまま、天皇の「日本に戦艦はもう無いのか?」の一言の下、2742人の国民とともに沈んでしまった。
大叔父の痛恨は、「大和があるから(戦えるだろう)」「大和を動かせるうちにやろう」と開戦へのインセンティブがかかり、「まだ大和がある!」と降伏受諾の障害になってしまったことにあった。

大和のムダはそれだけではない。
大和は停泊しているだけで、一日60トンもの重油を消費した。
これは駆逐艦なら800km前後も航行できる量を意味する。
その結果、重油の不足と戦術の転換から、大和は前線に出されることなく、戦力が枯渇しそうになった頃になってようやく駆り出され、敵艦の一隻も沈めることなく、乗員ともども撃沈されてしまった。
大和が出撃するようになると、重油の枯渇はさらに進行し、そのため海上交通路の防衛に当たっていた海上護衛総隊への重油供給が滞ることになり、輸送と補給の遮断に拍車がかかってしまった。
戦場での戦果を重視するために、戦争継続能力を犠牲にした格好だったが、結果としては、何らの戦果も挙げられず、「二兎追う者は一兎も得ず」に終わってしまった。
結果論的には、大和や武蔵などは自沈させて、駆逐艦をフル活動させて輸送と補給の護衛をさせた方が、フィリピンでも沖縄でも今少しマシな戦いができたと思われる。

最 後に、これは陸軍の話だが、昭和12年度には兵器費に占める弾薬費の割合はすでに56%になっていたが、翌13年度には早くも76%に上昇し、その分兵器 生産が犠牲となって滞り、さらに翌14年(1939年)には中国戦線に展開する25個師団への補給が一部不足するという事態に陥っている。
この昭和14年に戦前の日本のGNPは頂点となり、後は次第に衰退していくだけだった。
その翌々年に日米が開戦するわけだが、兵器・弾薬・戦車・自動車等の生産は昭和13年(1938年)がピークであったことを考えると、我々の先祖は一体どんな頭脳をしていたのか、疑うしかない。
戦艦大和は、日本の工業生産がピークに達する直前に予算計上されたわけだが、それはハーフリング(小人族)が超巨大斧を持とうとするようなものだった。
運用できないものをつくっても、持て余すだけのことになるのは、全国各地にある地方空港を見ても分かるはずだが、どうも日本人には理解できないらしく、「おらが村にも空港がある」心地よさの方に酔いしれてしまう傾向にあるようだ。

「大和は造るべきではなかった」

という合理的な思考による反省無くして、日本人が次の一歩を踏み出すことはないだろう。

【追記】
ち なみに1940年(昭和15年)における日本のGNPは394億円で、ドイツの2426億円の6分の1しかなかった。アメリカに至っては4254億円だっ た。中国との戦争だけでヒーヒー言っている時に、さらに生産力10倍のアメリカに宣戦布告したのだから、狂気の沙汰としか言いようがない。どうも日本人は この辺の反省も十分でないように思えてならない。
Jan
7th
Thu
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IT産業を呪縛する 「変われない日本」 - Zopeジャンキー日記 http://mojix.org/2008/06/02/kawarenai_nihon
ITproの高橋信頼記者より、先日の私のエントリ(「雇用規制撤廃と減税で日本経済は再生する」)を紹介したとの連絡をいただき、さっそく読んだ。

ITpro - 学生とIT業界トップの公開対談で胸を衝かれたこと—-IT産業を呪縛する“変われない日本”
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080530/305172/

ここしばらくIT系ブログやソーシャルブックマークなどで大きな話題になっていた、IPAX2008での対談イベント(関連記事は末尾を参照)をふりかえりつつ、そこにあらわれたIT業界の問題点が分析されている。

まず、IT業界のダメっぷりを示すこのエピソードが面白い。

<昔、「行き詰ったプロジェクトを立て直す」というテーマで取材したときに、ある大手システム・インテグレータで聞いた話だ。そのインテグレータ で、火を噴いたあるプロジェクトをどうリカバリしたかというと、「外注先にものすごく生産性の高いプログラマがひとりいて、そいつをカンヅメにして、わん こそばのように仕様書を次々と渡して一気に作らせた」のだという。それほど優秀なプログラマも、大手インテグレータにスカウトされたりはしなかった。大手 の社員になるか下請けになるかは、新卒入社時に決まる身分制度のようなものだからだ>。

IT業界にいる人間なら、ありそうな話だと感じるだろう。こういう「身分制度」はたしかに存在する。
(それにしても、「わんこそばのように」っていうのは面白い)

つづけて、IT業界の生産性や品質を下げる多重下請け構造の原因として、先日の私のエントリを引いて、以下のように書かれている。

<ブレイクビーンズの桜井通開氏は、受託中心と多重下請けの原因は、どちらも日本の雇用規制にあると指摘する。解雇するための規制が厳しいため、 ユーザー企業は短期間で技術が陳腐化するIT技術者を雇用するリスクを負えない。だから外注する。システム・インテグレータも雇用リスクを分散するため、 社員を雇用するのではなく下請けに発注し、派遣技術者を使う(桜井氏のブログ)>。

その後、私がそのエントリでもリンクした楠さんの「SI業界もネット業界も世界に打って出られない理由」、池田信夫氏の「偽装請負を生み出しているのはだれか」「「就職氷河期」はなぜ起こったのか」といった重要なエントリが引かれている。

解雇規制の問題点について、ITproでここまで 書かれたのは画期的だと思う。解雇規制は一見したところ、弱者を保護する「正義」の政策に見えるので、実はこれが悪いのだという話は、間違いなく反感を買 う。一般人の大多数をも敵に回しかねないこんな政策は、政治家がみずからこれを言い出すことも期待できない。一種の「タブー」なわけだ。しかし、「一般人 の大多数」が間違うこともあるわけで、解雇規制の問題はまさにその例だ。

「解雇規制はむしろ正規雇用を減らしてしまう」というのは、経済学者や労働の専門家のあいだでは比較的知られた見方のようで、OECDも日本にこの解雇規制の是正を勧告しているほどだ。そもそも私がこの視点を得たのも、池田信夫氏楠さんがずっと前からこの論点を書き続けていたからで、いろいろ調べていくうちに、その正しさを確信するに至った(関連は末尾参照)。

しかしこれは特に経済学者や専門家でなくても、会社を経営する立場の人間であれば、誰でもわかる話なのだ。解雇できないなら、最初から採用しない に決まっている。これが金儲け主義だなどと批判されるとすれば、もはやビジネスも会社も資本主義も成立せず、共産主義にするしかないだろう。実際、解雇規 制という「企業に雇用を強制する」仕組みは、半分共産主義みたいなものだと思う。

ITproの記事では、その「タブー」たる解雇規制の問題を採り上げつつ、雇用流動性の問題を次のようにまとめている。

<国際競争力、多重下請け、就職先としての魅力の乏しさ。そのすべての根元に雇用流動性の問題がある。“日本的雇用慣行”と呼ばれてきたものだ。
“日本的雇用慣行”はIT産業だけでなく、あらゆる産業に存在する。しかし、IT産業における技術革新と産業構造のスピードの変化により“日本 的雇用慣行”の負の部分や矛盾が最も先鋭的な形で噴出している。“変われない日本”がIT産業にからみつき、ぬかるみのように足をすくう>。

その後、まつもとゆきひろ氏と梅田望夫氏の対談より、技術者はもっと転職、起業すべきだというまつもと氏の提言が紹介されている(ここでのまつもと氏の話はポール・グレアム「本当は上司なんて必要ない」の論旨ときわめて近い)。そして梅田氏と斉藤孝氏の対談をまとめた『私塾のすすめ――ここから創造が生まれる』(ちくま新書)より、梅田氏・斉藤氏が戦っている<まったく同じもの>として、以下の部分が引かれている。

<『時代の変化』への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる『迷いのなさ』、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、『未来は創造し得 る』という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決め付ける知的怠惰と無気力と諦め、若者に対する『出る杭は打つ』的な接し 方>

これが<日本社会を閉塞させる、あまりに強大な敵>であり、<強大である理由は、それが外部ではなく、人々の心の中にあるからだ>という梅田氏の言葉が引かれている。これが、記事のタイトルにもある「変われない日本」なのだ。

そして最後に、ITエンジニアが目指すべきひとつの手本、「ロールモデル」として、「アルファギーク」と呼ばれる技術者にフォーカスをあてて、記事を終えている。

高橋記者はこれまでも、オープンソースの文化や価値観を支持する記事を精力的に書かれている印象がある。今回の記事では、まつもと氏や梅田氏の言 葉、アルファギークを紹介する後半部分がそれにあたるだろう。しかし今回は、前半部分で日本のIT業界の問題点を思い切って指摘したうえで、そこから後半 につなげているという点で、いっそう「果敢」な内容になっていると思う。全体として冷静でバランスがとれている記事だと思うが、前半で解雇規制問題という 「タブー」に踏み込んだ高橋記者の勇気に、あらためて敬意を表したい。私が個人ブログで好き勝手に書くのとはわけが違う。

記事の中で、高橋記者はこう書いている。

<日本が変わっていかなければならないとすれば、真っ先に変わることができるのは、変化の激しいIT産業をおいてほかにない。それは働く人間が、個人を押し潰す組織の論理にNOと言うこと、NOと言える力をつけることから始まるのではないか>。

このメッセージは、きっとじわじわ広がっていくと思う。

IPAX2008 対談イベント関連:
ITpro - 「IT技術者はやりがいがある仕事か」—-学生とIT産業のトップが公開対談
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20080528/304458/
はてなブックマークでの同記事の反響
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20080528/304458/
@IT - 「10年は泥のように働け」「無理です」――今年も学生と経営者が討論
http://www.atmarkit.co.jp/news/200805/28/ipa.html
はてなブックマークでの同記事の反響
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.atmarkit.co.jp/news/200805/28/ipa.html

解雇規制関連:
NIKKEI NET - 日本の正社員は過保護?・OECDが労働市場分析
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080305AT3S0401404032008.html
RIETI - 非正規雇用と格差―処遇の均衡へ制度改革
http://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/tsuru/13.html
書籍『日本のニート・世界のフリーター―欧米の経験に学ぶ』 (中公新書ラクレ)
http://www.amazon.co.jp/dp/4121501977
書籍『脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える』
http://www.amazon.co.jp/dp/4535555125

関連エントリ:
雇用規制撤廃と減税で日本経済は再生する
http://mojix.org/2008/05/28/revive_japan_economy
格差は問題ではなく、日本をどうやって成長軌道に乗せるかが問題だ
http://mojix.org/2008/05/03/japans_growth
日本のプロセス改善と人材流動性の関係
http://mojix.org/2008/03/29/japan_process

Update(2008/6/3):
このエントリを補完する「解雇規制がなくなり、雇用流動性が増すとどうなるのか」を書きました。
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経済に関して一般人が陥りやすい4つのバイアス - Zopeジャンキー日記 http://mojix.org/2008/03/25/caplan_four_biases
Bryan Caplanの 『The Myth of the Rational Voter: Why Democracies Choose Bad Policies』 (合理的投票者という神話:なぜ民主主義は悪い政策を選んでしまうのか)という本は面白そうだ。

The Myth of the Rational Voter: Why Democracies Choose Bad Policies
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Myth_of_the_Rational_Voter

私はまだ本を入手していないので、以下はこのウィキペディアの解説ページが正しいという前提で、私の興味を引いたポイントを紹介してみたい。

この本では、一般人と経済学者に対する調査結果をもとにして、誤った政策決定がたくさん生み出されてしまう原因は、一般人が経済について次のようなバイアス(偏向)を持っているからだ、としている。

1. Make-work Bias (雇用維持バイアス)

tendency to underestimate the economic benefits from conserving labor
労働しないことによる経済的利益を過小評価する傾向

2. Anti-foreign Bias (反外国バイアス)

tendency to underestimate the economic benefits of interaction with foreigners
外国人と取引することによる経済的利益を過小評価する傾向

3. Pessimistic Bias (悲観バイアス)

tendency to overestimate the severity of economic problems and underestimate the (recent) past, present, and future performance of the economy
経済問題を深刻に捉えすぎる傾向と、過去・現在・未来の経済成長を過小評価する傾向

4. Anti-Market Bias (反市場バイアス)

tendency to underestimate the benefits of the market mechanism
市場メカニズムが生みだす利益を過小評価する傾向

(以上は要点のみ抽出したもので、日本語訳は私のもの 詳しくは上記ページを読んでください)

主にアメリカを想定して書かれているようだが、日本にあてはめて考えても大体ピンとくるものばかりだ。特に、1の「雇用維持バイアス」と3の「悲観バイアス」が、日本では強いように感じる。

1の「雇用維持バイアス」とは、いまやっている仕事をなくさないで、雇用を維持したほうが(経済的に)いい、という考え方。これについては、この 200年で農業従事者が全人口の95%から3%に減ったことを挙げ、そのぶんiPodを作ったり、コミュニケーション・ネットワークを開発したり、レスト ランを経営する人が出てきた、としている。

この話は、そう言われれば頭では理解できる人でも、いざ自分がスキルチェンジを求められたり、実際に職を失いかねない立場になれば、「職にしがみつく」抵抗勢力になるかもしれない。

3の「悲観バイアス」は、経済問題(今回のサブプライム問題などもそうだろう)を深刻に捉えすぎる傾向と、経済成長を過小評価する傾向らしい。こ れはどちらかというと、アメリカ人はむしろ楽観的に捉えすぎていて(それが強みでもあるのだが)、悲観バイアスは日本人のほうがはるかに根深いと思う。日 本はこの「悲観バイアス」で何かと損をしている気がするので、アメリカ人の楽観主義・チャレンジ精神をせめて半分でももらえればと思う。

私は経済についてはからっきし弱いが、この本はぜひ入手して、がんばって読み通したいと思わされた。
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職業の「身分制度」が支える日本の「与信」 - Zopeジャンキー日記 http://mojix.org/2009/04/03/mibunseido_yoshin
— 日本の雇用問題と住宅問題は、つながっている。

弱者を「保護」するための規制によって、むしろ弱者がはじき出されている、という構造的な共通点だけでなく、両者は「与信」というもので密接につながっているのだ。

日本では、公務員や大企業の社員であれば、賃貸で部屋を借りたり、住宅ローンを借りたり、クレジットカードを作ったりするのにも、何も問題がない。しかし、零細企業や自営業者、派遣・フリーターなどの場合、そうはいかない。

日本では「どこに勤めているか」という「身分」が、そのまま「信用」になっている。そこに厳然たる「身分制度」があるのだ。

よって、日本では職を失ってしまった場合、それは収入がなくなるだけではなく、「信用」がなくなることを意味する。「信用」がなくなると、賃貸で部屋を借りられなくなる。部屋を借りられなければ、ネットカフェや「押入れハウス」に行くしかない。それで貯金が尽きれば、ホームレスだ。

日本では、職を失っただけでホームレスになるのだ。なんという国だろう。

こういう現状が問題だと思っている点では、私も多くの人と同じ思いだ。私が多くの人と異なる意見を持っているのは、こういう現状がなぜ生まれているのかという「見立て」、問題を引き起こしている「構造」についての見方だ。

「職を失っただけでホームレスになる」のだから、解雇する会社が悪いのだ、というのがよくある意見だ。会社にはカネがまだ残っていて、経営者の給料も高いのだから、それを出せばいいじゃないか、ということだろう。この種の考え方を、私は「ソフトな共産主義」と呼びたい。

「ソフトな共産主義」は、要するに「会社は社員の生活保障をする義務がある」という考え方だ。だから、会社が社員を解雇できないようにしよう、会社に高い税金を課そう、という考え方になる。

これはまさに、いまの日本政府がやっていることそのものだ。つまり「ソフトな共産主義」とは、実はいまの日本政府の路線なのだ。だから、「ソフト な共産主義」に共感する人は、少なくとも会社に対する強い規制・高い税金という点では、日本政府の路線を支持していることになる。それでも足りず、さらに 規制を強め、税金を高くすべきだという人までいる。

この「ソフトな共産主義」=日本政府路線こそが、いまの日本の問題を生み出している、というのが私の考えだ。

「職を失っただけでホームレスになる」という問題を解決するために、「会社に社員を解雇させないように規制する」というのは、まったく逆効果だ。なぜならば、解雇規制こそが、職業の「身分制度」を支えているからだ。

絶対に解雇がない公務員と、解雇がむずかしい大企業の社員が、「身分制度」の頂点に君臨している。解雇規制がある限り、この「身分制度」は崩れないのだ。

その「身分制度」における「階位」が、「与信」の格付けになる。それを根拠として、住宅を借りたり買ったりできるかどうかが決まるのだ。

「身分制度」とは、つねにアンフェアなものだ。実力や努力で決まるのではなく、いったん身分を手に入れれば、それだけで安泰というのが身分制度だ。

身分で決まってしまうのであれば、身分が上の者は努力しなくなる。努力する必要がないからだ。そして、身分が下の者も努力しなくなる。努力しても報われないからだ。こうして、誰も努力しなくなり、価値を生み出す人間がいなくなる。

派遣や失業などの雇用問題と、ネットカフェ難民やホームレスという住宅問題、その共通の根にあるのが、この「身分制度」による「与信」という構造なのだ。

この「身分制度」による「与信」という構造が、個人の生活、仕事への意欲といったミクロレベルから、産業構造、経済成長といったマクロレベルにいたるまで、すべてに悪影響を及ぼしている。その構造を支えているのが、解雇規制なのだ。

つまり、「職を失っただけでホームレスになる」という構造を作り出しているのは、皮肉なことに、「会社に社員を解雇させないように規制する」という考え方なのだ。

日本人というのは、自由や市場というものをどこか信じておらず、むしろ規制のほうを信じているようなところがある。「天につばを吐く」という言葉があるが、日本がうまくいかなくなっているのは、自由や市場を大切にせず、そこにつばを吐いているからだという気がする。


関連エントリ:
「雇用を守れ」という声が、日本の「労働者カースト構造」を強化している
http://mojix.org/2008/12/21/japan_workers_caste
フェアな競争こそが、価値と生産性を引き出す
http://mojix.org/2008/10/18/fair_competition
経済に関して一般人が陥りやすい4つのバイアス
http://mojix.org/2008/03/25/caplan_four_biases
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なぜ日本の成果主義は失敗するのか 「責任がなく、権限もない」個人という日本の縮図 - Zopeジャンキー日記 http://mojix.org/2009/05/12/japan_seikashugi
— この記事を読んで、「ヴォータンの独白」で書かれていた成果主義の話を思い出した。

「成果主義の10年(負の成果主義の悲惨な結末)」(2006年12月)
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/10_aafa.html
「負の成果主義の悲惨な結末(再論)」(2008年5月)
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_dc34.html
負の成果主義の悲惨な結末(補論)(2009年2月)
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-9e2d.html

どれも面白い内容で、文体も軽快でスイスイ読めるので、ぜひ読んでみてほしい。要点だけまとめると、

・日本が成果主義のお手本とした外資では、「客観的」な成果主義などやっていない
・外資では、「客観的」な情報は参考にするだけで、むしろ現場責任者が「主観的」に成果を評価している
・外資では、現場をわかっている現場責任者が、採用・解雇の人事権も持っている
・日本では、現場責任者が人事権を持っておらず、いっぽう人事担当は現場をわかっていない

といったところになると思う。もちろん、ここでの「外資」や「日本」はすべての会社がそうだというわけではなく、ヴォータンさんから見た一般的な傾向の話だと思うが、じゅうぶんに妥当な内容であり、正しい指摘だと思う。

ヴォータンさんの指摘をふまえての私の意見としては、日本で「成果主義」がうまくいかないのは、結局のところ

「現場責任者に、採用・解雇の人事権も含めた権限がない」

というところに尽きるように思う。本当に「成果主義」をやるのであれば、人事担当ではなく、現場での働きぶりをわかっている現場責任者がやるしかないし、減給や解雇まで含めた人事権まで現場責任者が持っていなければ、本当の「成果主義」にならない。

日本では、現場責任者に権限がないどころか、会社そのものが、社員に対する減給や解雇がなかなかできないようになっている。減給や解雇ができない 上に、現場をわかっていない人事が「客観的」な成果主義をやろうとする。何らかの「客観的に見える数字」をひねりだし、それを根拠にしたりする。これでは うまくいくはずがない。

ヴォータンさんも書いているが、現場責任者に人事権まで与え、現場責任者が「主観的」な評価、「主観的」な採用・解雇をおこなったとしても、別に問題はない。「負の成果主義の悲惨な結末(再論)」の中で、友人との会話として、こう書かれている。

<「でもさあ、お前が一人で主観的に評価したら危なくないか?」
ヴォ「うん、危ない。ただね、俺自身は部門の責任者として『成果』と言う客観的なもので、まず評価されるし、俺自身に対するアナログな評価は直接の上司やら世界中にいる同僚やらから来るんだよ」
ヴォ「だから、情実評価やらアホな評価をして部下のモチベーションを落としたら、まず自分の『成果』が落ちるからアウト!且つ、自分に対する上やまわりの評価も悪くなるよな」>

つまり、それをどうやるかということがその現場責任者の「仕事」だから、もしデタラメにやっていれば、その現場責任者の評価が下がり、クビになったりするだけの話なのだ。

上司もまた、その現場責任者を「主観的」に評価する。だから、現場責任者には「ちゃんとやろう」というインセンティブがある。現場責任者が、その上司の「主観」をどうしても信頼できないと思ったら、別の会社に行くだろう。

日本では現場責任者に人事権がないだけでなく、いわば「会社自体に解雇の権限がない」。これでは、根本的に「成果主義」と矛盾せざるをえない。「権限」と「責任」はつねにセットになるものだが、クビというかたちで「責任」を取ってもらうことができないから、「権限」も与えられないのだ。

「責任がなく、権限もない」個人というのは、会社の現場責任者だけでなく、日本のあらゆるところで見られるパターンであり、いわば「日本の縮図」だ。日本では、個人にも、会社にも、自治体にも権限がなく、権限はすべて政府に集中している。権限がないかわりに、みんな「保護」されて、「護送船団方式」で団体旅行のように集団移動するので、誰も責任もとらなくていいのだ。

本当の「成果主義」とは、「成果を出したものが報われる」という評価システムのはずだ。これをやるためには、現場責任者はもちろん、末端の社員レ ベルにまで、「権限」と「責任」を委譲するということが不可欠だろう。「権限」を与え、自由にふるまって成果を出してもらう。しかし、そこには「責任」も ともなう。

つまり、個人に「責任がなく、権限もない」という中央集権的・全体主義的な日本方式では、そもそも「成果主義」はできるはずがないのだ。成果や実力ではなく、「身分」で決まっているのがいまの日本だ。だから、前向きに働こうというインセンティブが生まれないし、「希望」もない


関連エントリ:
会社が社員をきちんと評価できていないからこそ、雇用流動性が必要なのだ
http://mojix.org/2008/06/04/fluidity_of_employment_for_you
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能力主義(のうりょくしゅぎ)とは、個々人の能力の査定結果を人物評価の基準とし、待遇として反映させること。特に企業の人事考課に利用され、この評価を地位の上下や賃金額に反映させる。

成果主義と混同する例が見られるが、以下に述べるように異なる物である。

本記事では、日本において多くの企業で人事考課の基準として使われている「能力主義(能力主義管理)」について解説する。

[編集] 概要

日本においては、1960年代頃から、従前の年功序列制度は労働力の確保には役立ったものの、これから求められる国際競争力の強化には役に立たないという認識が高まり、従業員の能力開発を促し、良質化した労働力を効率的に活用すべきとして、能力主義による人事考課が年功序列に替わって徐々に採用されていった[1]。その流れを決定付けたのが、1969年に当時の日本経営者団体連盟(日経連、現在の日本経団連)が発表した『能力主義管理-その理論と実践』である。

この制度における評価される「能力」とは、前出レポートによれば「企業目的達成のために貢献する職務遂行能力(職能)」を意味する。この査定には、顕在能力(営業成績等の具体的な業績)のみならず、潜在能力(企業・上司からの期待)、知識(研修、国家・公的資格取得など)、態度(性格・意欲など)、経験などの要素が採用される。この点が成果主義との相違点である。

能力主義管理の実施の核となるのが、「職能資格制度」である。これは、能力に応じて昇格する「(職能)資格等級」と、課長・部長などといった「ポスト(役職)」が並列して存在し、従業員は資格等級に応じた給与・ポスト[2]等の待遇が与えられる。つまり、資格等級が処遇を決定するのである[3]から、従業員は等級の昇格[4]を目指すことになる。 この資格等級の昇格は、「能力(職務遂行能力)」が各等級に設定された「職能要件」に達しているかどうかで判断される。

とは言え実際は、賃金は基本的に職能給(職能資格が基準)と年齢給(年齢もしくは勤続年数が基準)の2本立てで算出される[5]点、資格等級の昇格要件に「必要滞留年数」(前回の昇格より一定期間以上経過している事が条件となる)[6]が 設けられる事がある点など、年功序列的運用が維持された。日経連は、年功序列の下で培われた集団主義(組織の秩序や和)という長所を評価しており、この長 所は維持されるべきとしていたので、この点は事実上許容された。つまり、この制度は年功序列・終身雇用を踏まえた『特殊日本的な状況下で構築された日本型 能力主義[7]』と言える。

[編集] 能力主義の長所と短所

  • 長所
    • 資格等級に定員は無いため、役職の空きが無い場合でも功績に報いることができ、従業員のモラールの維持・向上を図れる。
    • 長期にわたる人材の定着が図れることから、管理者候補たる人材をストックできる。
    • 能力の向上が昇格・昇進に繋がるため、従業員が能力開発に積極的になり、労働力の質的向上が図れる。
  • 短所
    • 能力の査定に潜在能力や情意(態度、やる気など)などの数字で表せない項目が存在するため、評価者の主観に影響される。
    • 考課過程や能力評価の結果が非公開の企業が多く、公正性・透明性が十分に担保されていない。
    • 運用上年功が考慮されており、完全な能力主義とは言い難い。(但し、職務経験も能力主義の評価基準の一つであり、年功が考慮されて然るべきとも言える。)
    • 高齢・高資格の従業員が企業内に滞留することによる人件費の増加。
    • この制度は終身(長期)雇用が前提であるため、結婚・出産による退職もしくは長期休業が予想される女性に対しては適用されない、もしくは区別・差別的取扱いがなされる事が多い。コース別管理制度一般職も参照のこと。